水とか電気とかガスといった資源を全く節約せずにガパガパ使ってしまう中高年を見る時がある。そういう人を見ると、どうしてあれほど多く使うのか? と思ってしまう。非常に無駄遣いをしているように見えてしまう。
それとも、僕の節約意識が強すぎて、世間一般における資源の「普通」の使い方が無駄の多いものに見えてしまうだけなのだろうか? いや、あまりそうは思えない。
成育時期に物的な豊かさがなかったが、大人になって懸命に働いた結果、子どもの頃とは比べ物にならないほど物的な豊かさを得たという人は、高齢になってくると資源を節約せず使いすぎる傾向があるのだろうか?
人間というものは満たされないものを満たそうとするが、満たされない「飢え」の程度や期間が大きすぎると、満たされた(「飢え」が解消された)後でも、とめどなくもっと多くの満足を得ようとするものなのか?
仮にそうだとしたら、なぜそうなのかという疑問が生じるが、その答えの鍵となるのは、自分を顧みることができるかどうかということであるような気がする。
「その暗闇はトンネルではないのですね? 遺伝子を形成している過去があるのですね?」
「笑顔」を表す。まるで、それまでの困難を忘れてしまったかのように。
放置された感情。野放しにされている因果関係。
答えがわからない。
では、答えがわからない原因は何なのか?
答えを探そうとするのにその答えを見つけられない理由は何なのか?
10の10乗個の意志(意思)の総和が、成り行き、結果としての現在、今後来る変化、をもたらす。
現実世界と関係があって現実世界と関係のない世界。
ただ一つの論理体系に統一されていないものはすべてカオスに含まれる。
なだれ落ちていく一つの砂粒をすくい取り…
「そもそも人間という存在を一つの種としてくくることに無理がある。」
「個体の数だけ種が存在すると?」
「近いものがある。」
細胞分裂が始まるときに、「分化」が始まる。別の主体ができていく。
罪深い「創造」者たち…。
でも、君なら知っているだろう? わかっているだろう?
心の涙があるのなら…。
これといった楽しみや喜びがなくてもやるべきことを淡々としっかりとやっていけるのなら、これほど心強いことはないだろうに。でも、それほど強くない。だから、何かに楽しみや喜びを見出して、それらで心を休めながらやるべきことをやっていく。
楽しみや喜びは、外側へ求めても虚しい。外側へ求めて得られる楽しみや喜び(受動的な楽しみや喜び)は、大きなものかもしれないが、それが終わった後に虚しくなる。それならば、日々の生活の中にこそ楽しみや喜びを見出すようにした方が良いのではないか?
日々の生活の中で、「こうしたい」、「これを実験してみよう」といった思いがきっとある。それをやってみよう。それらは、外側へ求めて得られた楽しみや喜びよりもずっと小さいものかもしれない。それでも、そういったものをたくさん持っていれば、楽しみや喜びを外側へ求めることによらずとも心を休められるかもしれないし、安らぎで満ちた心で日常のやるべきことに戻れるかもしれないし、創造性のある生き方につながっていくのかもしれない。
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