これといった楽しみや喜びがなくてもやるべきことを淡々としっかりとやっていけるのなら、これほど心強いことはないだろうに。でも、それほど強くない。だから、何かに楽しみや喜びを見出して、それらで心を休めながらやるべきことをやっていく。
楽しみや喜びは、外側へ求めても虚しい。外側へ求めて得られる楽しみや喜び(受動的な楽しみや喜び)は、大きなものかもしれないが、それが終わった後に虚しくなる。それならば、日々の生活の中にこそ楽しみや喜びを見出すようにした方が良いのではないか?
日々の生活の中で、「こうしたい」、「これを実験してみよう」といった思いがきっとある。それをやってみよう。それらは、外側へ求めて得られた楽しみや喜びよりもずっと小さいものかもしれない。それでも、そういったものをたくさん持っていれば、楽しみや喜びを外側へ求めることによらずとも心を休められるかもしれないし、安らぎで満ちた心で日常のやるべきことに戻れるかもしれないし、創造性のある生き方につながっていくのかもしれない。
「考えるものこそ人間である。」この考え方に従うと、考えない私は人間ではない。考えるということはどういうことだろうか?
疑問を持つということ。無意識に従っていることすべてに疑問を持つということ。当たり前だと思っていること、それが社会的に自然なことだと思っていること、…。それらをどこまで合理的に説明できるだろうか? そのように感じ、そのように考え、そのように動くのは、なぜなのか?
想像を超えるほどの激痛や絶望に苦しまされる人々の存在…。
残酷な現実をまた一つ知った後…。
悲愴…。
光は闇に消えていく。
天への願い
「せめて、すべてのヒトの苦しみを取り除いて、激痛や絶望をもたらさないように…、どうか安らぎですべてのヒトを包んでください…。」
安らぎこそが、意識しているか否かによらず、すべてのヒトが求めているものであるはず。
安らぎに包まれたら誰かを傷つけるだろうか?
安らぎに包まれたら誰かを騙すだろうか?
安らぎに包まれたら誰かを疑うだろうか?
安らぎに包まれたら誰かを憎むだろうか?
安らぎに包まれたら不条理な風習や伝統など守るだろうか?
安らぎに包まれたら欲望をどこまでも求め続けるだろうか?
安らぎに包まれたら支配欲や覇権をどこまでも求め続けるだろうか?
安らぎに包まれたら自分と世界、すべての他者との存在の関係性を知らないままでいるだろうか?
ヒトという存在の根本的な問題に目を向けない限り、ヒトは増殖の欲望に支配され続ける。その欲望で目的なく次々にヒトを生み出し、グローバルな関係において直接的あるいは間接的に他者への苦しみをもたらす。ヒトはそうして、自制し切れないものに支配されると同時に、同種であるヒトをも支配して存続していくのだろう…。
知らなかったら「幸福」なのでしょう…。
知ってしまったら、自分を含めた人間という存在の意義を問われるでしょう…。
ただ悲しみしか見いだせない…。自分の生きる空間に光があるとしても、その残酷な現実が遠き国のことだとしても…。
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