http://yuushin.blog.shinobi.jp/%E6%80%9D%E8%80%83/%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%8C%EF%BD%9E%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%8D%E3%81%8B%EF%BC%9Fなぜ「~である」か?
「~である」という表現には2つの種類があると思う。1つは結論の「~である」で、これは文章の中で明示されるか否かによらず何らかの因果関係の結果としてこうなっている、ということを表すもの。もう1つは仮定や条件としての「~である」で、何か考える際の事前の設定を表すもの。こちらはさらにその設定の根拠がある場合とそうでない場合がある。
文章を読むとき、特に勉強で教科書や参考書を読むときにこの「~である」をよく目にするけど、その根拠があるとは限らないし、また、あったとしても明示されるとは限らない。
成績は真ん中くらいだった。その成績を上げられなかった要因の1つに「~である」の表現に惑わされたということがあるかもしれない。因果関係を理解せずに単なるデータとして「~である」という知識を覚えることもできたはずだけど、できることならなるべく因果関係を理解した上で覚えたい、と思っていたのかもしれない。結局、わからないままのことが多かったので覚えられるものも十分に覚えられなかったのかもしれない。
勉強をしていて説明文の論理の流れの中に「~であるので」という文がポツンと出てきたときには、それまでの論理の流れから一見してわからないことがある。こういうのが出てくると、これはどういうわけなのだろうと因果関係を知りたくなるが、その時点では知る術がなく疑問が1つ積み重なることとなってしまう。どちらかと言えば、結果としての知識だけでなく、その結果に至った理由も知りたい性質(たち)なのだろう。
因果関係がある「事実」とそうでない「条件設定」。「~である」のは、
(1)
実験や経験や調査研究の結果。それらの結果と理論が一致した事実として成立している何らかの法則があるからなのか?
(2)
それともそうした法則はないが、対象の傾向や性質から理論的にそのように考えられるからなのか?
(3)
そうでもなく、ほとんど根拠も事実もない単なる仮定なのか?
こういったことも知りたい。ところが、教科書検定で許可された教科書も含めて世の教科書や参考書の類は、こういう部分を明記しない傾向があると感じる。特に、根拠があることなのかそうでなく単なる仮定なのかの区別さえも明記していないものが少なくないと感じる。
でも、仕方ないのだろう。教科書などでは根拠を都合上省略せざるを得ないということだと今ならば推測できる。知識は複雑に絡み合っていることも少なくなく、すべてを丁寧に説明しようとしたら広い分野に及ぶ膨大な文章量となって学ぶ側にとって非常に負担になるだろうし難解な本ともなるだろうから。また、ある知識についてなぜそうなのかと知りたくなる人がいれば、そうは思わず自然に受け入れてしまう人もいるが、前者はその疑問を主体的に解いていけるから後者に合わせておくということなのだろう。それに、何よりもこういう部分でつまづいていたら勉強が進まない。
しかしながら、これは勉強に限ったことではないと思う。社会や世界が因果関係で成り立っている以上、問題の本質に迫るためには上に書いたような問いかけは重要なのではないかと思う。現象や問題の背景には必ず突き詰めた原因がある。そして、これは人の行動、性質、さらには人間とは何か? そういった問いかけにも通じることかもしれない。
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