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logosノ夢 ブログ(雑記)

無題

過去に作り上げられた不完全な構造。それに依存したままの現代。深い矛盾が横たわるのに、なぜ…?

「個」の「全」への邪なる欲望が他の「個」の悲しみを生み出し、それが憎しみに転化し、その憎しみが悲しみを生み出し、その悲しみがまた憎しみを生み出していく…。欲望とは何だろうか? 人はなぜこれに従わされてしまうのか? 愛とは何だろうか? 人はなぜこれがなければ邪に身を染めてしまうのか?

人間という存在の闇が浮かび上がる。愛がなければ欲望に従わされるという哀れさ。生み出され、無力のうちに作り上げられる惨めさ。無力の時期に社会の抑圧を一点に押しつけられる惨めさ。憎しみからくる残虐さ。動物にはない残酷な憎しみ。完全な理性にはない残酷な憎しみ。

「人を知れば悲しい」。悲しみ以外の何を見いだせるだろうか…?
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ちょっとした驚き

8月中のちょっとした驚き。

いつも利用するスーパーで見た価格。キャベツ1玉20円。自炊派にはビックリ!
丸々1個、特別大きいわけではないが小さいわけでもない。普通の大きさのキャベツ。激安。もちろん購入。

その2週間後、同じスーパーで見た価格。にがうり1本10円。これまた安い!
結構大きくて立派なにがうり。1本10円とは…。もちろん購入。2本買っておいた。

どちらも国産。

元々そのスーパーが業務用として売っているところ(でも一般の人も利用できる)なので通常価格も安いのだが、こんなに安い野菜はもやし以外では初めて見た。食費を抑えるという点でありがたい。

なぜ「~である」か?

「~である」という表現には2つの種類があると思う。1つは結論の「~である」で、これは文章の中で明示されるか否かによらず何らかの因果関係の結果としてこうなっている、ということを表すもの。もう1つは仮定や条件としての「~である」で、何か考える際の事前の設定を表すもの。こちらはさらにその設定の根拠がある場合とそうでない場合がある。

文章を読むとき、特に勉強で教科書や参考書を読むときにこの「~である」をよく目にするけど、その根拠があるとは限らないし、また、あったとしても明示されるとは限らない。

成績は真ん中くらいだった。その成績を上げられなかった要因の1つに「~である」の表現に惑わされたということがあるかもしれない。因果関係を理解せずに単なるデータとして「~である」という知識を覚えることもできたはずだけど、できることならなるべく因果関係を理解した上で覚えたい、と思っていたのかもしれない。結局、わからないままのことが多かったので覚えられるものも十分に覚えられなかったのかもしれない。

勉強をしていて説明文の論理の流れの中に「~であるので」という文がポツンと出てきたときには、それまでの論理の流れから一見してわからないことがある。こういうのが出てくると、これはどういうわけなのだろうと因果関係を知りたくなるが、その時点では知る術がなく疑問が1つ積み重なることとなってしまう。どちらかと言えば、結果としての知識だけでなく、その結果に至った理由も知りたい性質(たち)なのだろう。

因果関係がある「事実」とそうでない「条件設定」。「~である」のは、

(1)
実験や経験や調査研究の結果。それらの結果と理論が一致した事実として成立している何らかの法則があるからなのか?

(2)
それともそうした法則はないが、対象の傾向や性質から理論的にそのように考えられるからなのか?

(3)
そうでもなく、ほとんど根拠も事実もない単なる仮定なのか?

こういったことも知りたい。ところが、教科書検定で許可された教科書も含めて世の教科書や参考書の類は、こういう部分を明記しない傾向があると感じる。特に、根拠があることなのかそうでなく単なる仮定なのかの区別さえも明記していないものが少なくないと感じる。

でも、仕方ないのだろう。教科書などでは根拠を都合上省略せざるを得ないということだと今ならば推測できる。知識は複雑に絡み合っていることも少なくなく、すべてを丁寧に説明しようとしたら広い分野に及ぶ膨大な文章量となって学ぶ側にとって非常に負担になるだろうし難解な本ともなるだろうから。また、ある知識についてなぜそうなのかと知りたくなる人がいれば、そうは思わず自然に受け入れてしまう人もいるが、前者はその疑問を主体的に解いていけるから後者に合わせておくということなのだろう。それに、何よりもこういう部分でつまづいていたら勉強が進まない。

しかしながら、これは勉強に限ったことではないと思う。社会や世界が因果関係で成り立っている以上、問題の本質に迫るためには上に書いたような問いかけは重要なのではないかと思う。現象や問題の背景には必ず突き詰めた原因がある。そして、これは人の行動、性質、さらには人間とは何か? そういった問いかけにも通じることかもしれない。

地上デジタル放送移行完了後1年余り

テレビが完全にデジタル放送に替わってから1年ほどが経ちましたが、自分はこの機会にテレビ視聴をやめました。理由は簡単です。ほとんど見ていなかったからです。テレビを見なくなって変わりました。ディスプレイがなくなってスペースが広くなったり、節電につながったり、受信料という経費を払わなくてよくなったり…。

それで、テレビを見ない生活をしばらく続けてみて思ったのは、テレビというものはある種の依存対象なのではないかということ。ニュースを見るとしても、しっかりした目的意識を持ってみるわけでもなく、なんとなくつけて音声と映像を出していた、という感じがしていました。そんな視聴の仕方でも世の中の動きはある程度わかるわけですが、しかし、そういうのはなんだか惰性とも思えてきました。

エンターテイメントだと割り切っている、あるいはエンターテイメントでなくてなんだと言うのかという方にとってはテレビは格好のツールなのかもしれません。

インターネットという情報通信技術が発達してきた今において、テレビというものは絶対的なものではなくなってインターネットと似たような形になってきているようです。音声と映像だけでなく、双方向の情報通信ができるという特徴がその一つの現れなのでしょう。

ただ、自分にとっては、本当に必要なものなのかどうかと考えたときにテレビは必ずしもそうではなくなったということです。そして、テレビを見るということに「なんとなく」の依存があったと気付いたということです。テレビを見なくなったという人は少数派かもしれませんが、これを読んでいる方にとってはテレビはどうでしょうか…?

「other」ページについて

メニューの「other」のページについて。

「イラスト」の方で例によって整理を行いました。「キャラクター」の分類でかなりカットしたのですっきりした感じです。最近過去の絵を見返してみて改めてわかったことですが、初期には非常に見苦しい絵を晒してしまいました(すみません…)。
しかし、描き始めて1年半ほど。少しずつでも続ければそれなりに描けるようにはなるようです(まだ線画ばかりですが)。多分、最近の絵はそれなりに「見れる」ようにはなっているかと…。

「キャラクター対話」の方は更新を終了させることにしました。こちらは、自分で描いた絵を使ってキャラクターを作り、選んだテーマに沿った話を書いてみようと思ったことから始めてみたものです。書いてみたら、ファンタジー関係の知識の勉強になりました。ファンタジーに詳しくないけど興味はあるという方には、小さな発見があるかもしれません。

「キャラクター対話」は終了しましたが、「イラスト」(線画)の方はまだ描けそうなので続けてみます。

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