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何か

光がなければ何も見えない。何も見えなければ、何もないのと大きく違わないかもしれない。まったく光がないわけではなく、「何か」見える。それでもそれが何であるかを知るには十分ではない明るさ。

自分に対しても人間社会という環境に対しても、期待感や希望を持ったところで根底が変わらなければ何も変わらない。でも、生きている限り捨てないものを何か持っているから期待感や希望を持つ。

では、その根底とは何なのか、知りたいと思うのは自然なことだろうか不自然なことだろうか? 明るくなったら何であるかわかる。しかし、表面を知っただけになるかもしれない。別の方向から考えてみれば、光では知ることができなくても音とか風とか他の方法なら知ることができるかもしれない。そしてその何かについてのデータを得られる。

光でも音でも風でも、その「何か」について知ったことは、その「何か」の持つ「意味」を知ったということになるのだろう。しかしながら、いずれの方法でも一面を知ったに過ぎないと考えることができそう。

光は大きな力を持っている。光があれば幾多の大きな問題が是正され望む方向へと変化していくだろう。だから光を求める。ただ、長く閉ざされてきたから一層強く光を求めている。それが各所に垣間見える。自然の力に壊された場合は仕方ないとしても、人が相互作用し合う中で引き起こされたものは理屈的には修正し得る。

でも、複雑な人の世界。創られたのか創ってきたのか(あるいは造られたのか造ってきたのか)、どちらでもありそう。忘れてしまったのか初めから知らないのか、どちらでもありそう。

「何か」はある。きっとそれに意味がある。意味があるからこそそれは「在る」。その意味を知ったら悲しいものも見えてくる。全体的に見たら、少し見ただけでも悲しみが計り知れないほど多い。「人を知れば悲しい」。それでも意味を知ろうとして、安らぎを得ようとして、幸いを求めて、人は生命を、社会を営む。

認識を最も基本的なところまで下げれば、「何か」の正体あるいは根本なるものについて一つの理解の仕方ができるかもしれない。自分とは何なのか、人とは何なのか? その問いを携えて歩いてゆく。そこに灯すのは自ら律する心。落ち着きの心。静かに燃えている、しかし力強い炎。自ら律する心に基づいた漲る意志。

人は考える。考えていくということの中に、「何か」がある。
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